「自由で多様な社会」は人にきびしいけど、可能性が開かれたおもしろい社会
ニー仏さん(@neetbuddhist) の昨日のツイートを受けて。
「自由で多様な社会」は、あなただけではなく他人も自由で多様なのだから、そこはコンフリクトに満ちたストレス社会であるに決まっているし、そのことをよく理解した上で、敢えてリスクを引き受ける覚悟のある大人でなければ自由で多様な社会は実現できない、ということは何度でも確認する必要がある。
— ニー仏 (@neetbuddhist) 2017年7月9日
「自由で多様な社会になれば、コンフリクトが減って私のストレスがなくなるはず」と考える人たちには、「当該の社会で自由で多様になるのは私(と私の仲間)だけ」という(本人には意識されていない)脳内前提があるのだけど、そういうのはコドモの考え方なんですよね。
— ニー仏 (@neetbuddhist) 2017年7月9日
「自由で多様な社会」になれば、自分を含めた社会のメンバーみんなが尊重されてハッピーになると勘違いしがち。
でも、自分の言うことを尊重してもらいたかったら、他人の言うこともおなじように尊重してはじめてフェアになる。
そこが抜け落ちて「社会で自由で多様になるのは私だけ」とふるまっても、その態度は社会に受け入れられない。
人生相談所にいると、『今までこれだけ社会から辛い仕打ちを受けてきたんだから、自分の訴えは受け入れられないとおかしい』という態度の人にときどき出会う。
そう言いたくなるのはわかる。とてもわかる。
辛い思いをしてきたのを自分の責任だと背負いきれないから、社会が悪いと考えないとやってられないのもわかる。
でも、実際にはその訴えはほぼ受け入れられない。「コドモの考え方」とあしらわれるだけ。
単純な話として、「自由で多様な社会」では、「人は一般にこう生きるべき」というパターナリスティックな規範(と一体となった保護)が薄くなるわけだから、そのぶん個人が「自分でなんとかするべきこと」の量は増えるわけです。それをどう捉えるかは好みですが、まあ楽な道ではないのはたしかですね。
— ニー仏 (@neetbuddhist) 2017年7月9日
私が言っているのは、単に誰かが「断言」すればそれに皆が従うような社会がお好みならそうすればよいのだけど、少なくともそういう社会は「自由で多様」とは言えないよね、という至極単純なことなのだが、そういう「シンプルな話」が通じないのも多様性ならではなので喜ばしいですね。
— ニー仏 (@neetbuddhist) 2017年7月9日
世の中は確実に「自由で多様な社会」な方向に進んでる。
ぼくは自由で多様じゃない学校生活がしんどくてしょうがなかったし、ムダな仕事がふりかかってくる職場が耐えられなかった。
だから「自由で多様な社会」なのはよかったって思う。
江戸時代だったら親の職業がそのまま自分の職業になったから、職業選択の自由がない代わりにどんな職に就くかを悩む必要はなかった。
でも「自由で多様な社会」は自分がなにを考えてどう振る舞うかをだれも決めてくれない。
自分でぜんぶ考えて、自分で責任を背負って行動することになる。
それをどう考えるかは好みだけど、楽な道ではないのは確かかもしれない。
うちの人生相談所に訪れる人には、この楽でない道を進むにはしんどそうな人が多い。
自分の生き方を自信をもって決めるには、いままでの人生がうまく行かなさ過ぎた。
いままでの経験がまるで役に立たないのに、どうやってこれからの人生を決めればいいのか。
まずは、社会で受け入れられる方法を総動員して生活を安定させること。
そのあとに、小さくてもいいからとにかく行動を起こして、うまくいった体験を重ねること。
むしろ失敗してもダメージの少ないくらい小さな行動からはじめるほうがいい。
小さくてもうまくいった経験値を積んでいけば、もっと大きな行動もできるようになる。
生活が安定していれば、気持ち的にも時間的にも試行錯誤する余裕が出てくる。
「自由で多様な社会」はどう生きるかの選択と責任を自分で背負いこむことになるから、人にきびしい社会。
でも、他人に生き方を決められて、それがぜんぜん合わなかったときを考えたら、きびしくても自由で多様なほうがいい。
そんな可能性が開かれたおもしろい社会を満喫できるには、安定した生活と試行錯誤する経験がだいじ。
生活を支えて経験をいっしょに重ねていくのが、うちの人生相談所の役割なんだと思う。